自分で選ぶことの大切さ。障害児教育の視点から。

僕たちの事務所にもかなり子どもたちが出入りするようになった。
聴覚障害・難聴児向け総合学習塾デフアカデミーの教室が
Silent Voiceの事務所の横にある。

子どもたちは、デフアカデミーの教室に行くまでに
わざわざ名札を取りに事務所に来ないといけない。

これは、教室に顔を出さないスタッフも
子どもたちとちゃんと顔を合わせるために敢えてやっていること。

顔を見て、「学校どうだった?」など少し言葉を交わす。
手話はすごいなあと思うのは、今日は元気なのかそうじゃないのかが
その日の手話を見るだけである程度分かる。

やってよかったなと思うことのひとつ。

今日のテーマは「自分で選択すること」
「聴覚障害」「難聴」「子ども」の例で書いていくのだが、
人間全てにつながっている話だと思っている。

デフアカデミーを始める前、広告代理店を辞めた頃から
地域を問わず聞こえない・聞こえにくい子ども、
その親に会って話を聞かせてもらっていた。
いろんな事例を知りたくて本も読んだりした。

その時から気になったのは、選択肢が少ないこと。
親が「この道に行きなさい」と強制する、ということもあるが、
そもそも障害児は選べる学校進路や部活、習い事の選択肢が少ない(ように感じてしまう)

そうなると、
子どもはほとんど、自分の意志もなく
用意された道に沿って年齢を重ねていく。

もちろん小学生くらいの頃は、周りの大人が伴走者というよりも
引っ張っていってあげたほうが良いこともあるかもしれない。

ただ自分が感じたのは、大きくなるにつれて
「自分で決めた」ということが増えていかないと
困難な場面に出くわしたときに
「(その子自身の中で)人のせいにしてしまう」ということ。
それは、客観的に見れば、その子が「逃げたり」「諦めたり」することにつながっていく。

臭い言葉なのですが、
時々、「頑張る」という言葉を「顔晴る」と書く人がいる。
数ある臭い言葉の中でも深い言葉だなぁと思う。

自分が好きだったり、やりたいことをやっている子どもは
頑張っているときに、どことなく顔が晴れている。
子どもが知りたいとかやりたいと思った時の吸収力はすごいと思う。

でも、やらされていたり、辛い思いをしてやっている子は
頑張っているときに、どことなく顔が晴れていない。
そんな状況のときに得られているものは、実は少ないんじゃないかと思う。

本当に人が頑張っているときって、ふとした時に良い顔をしていたり
(表情が物語ることは、子どもが大きくなるにつれて読み取りにくくなるけれど…小さい子ほどわかりやすい)
雑談でも今頑張っていることの話が出たりする。

ただ、子どもが自分で決めるためには
子ども自身に色んな経験が必要なのだろう。
それも、やらされてやった経験じゃなくて
自分が主体的に、取り組んだ経験。

デフアカデミー顧問の西岡先生が今日言っていていいなぁと思ったのは、
都道府県のカルタに熱中して「勝ちたい!」と思った子どもが
都道府県の勉強を頑張るために、お母さんに言って教材を買って帰ったと。

自分で勝ちたいと思って、勝つためにたくさん覚えるんだろうなぁ。
応援したい。その先に、得意意識が生まれてきたり、
何より、その子自身が自分のことを理解するきっかけがたくさん生まれてくる。

自分で選ぶこと、僕は、まず、その芽を摘まないように心がけたい。
そして、子ども自身が「芽」に気づいたり、伸ばせる機会をたくさんたくさん作りたい。

自分で決めていけること、それが、辛い時でも
自分で起き上がれる力になると思うのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です